こんばんは、ダイナです。
何故生きるのか?
この問いについて、誰しも一度は考えたことがあるのではないかと思います。
人は誰かに何かを「与える」ために生きている。
これが僕の答えです。
それはどういうことか?
今回は人生が僕に教えてくれた、生きることの意義について綴ります。
- 高2の時、突然父親を亡くした。生きる意味が分からなくなった。
- 世間と同じ方向を向いていれば、答えが見つかると思った。
- 無事難関大学に入学。大学デビューを果たす。
- 大企業に入社。そこは暗闇だった。
- 暗闇の中でこそ輝く星がある。
- 人の幸せは「与える」か「与えられるか」のどちらか
- これからは人に与え続ける人生にしよう。
高2の時、突然父親を亡くした。生きる意味が分からなくなった。
前回の記事に書いた通りです。
僕は父親を亡くして以来、ずっと生きる意味を探していました。
人はすぐ死ぬ。誰かが死んでも何事もなかったかのように日常が始まる。
じゃあ僕って何なん?
ただ訳が分からなかった。
世間と同じ方向を向いていれば、答えが見つかると思った。
それから僕は狂ったように勉強しました。
仮面の男は言いました。
いい大学に行って、いい会社に入れば幸せになれるんだ。
結婚し、子供を授かり、マイホームを持ち家族円満に暮らすことこそが幸せなのだよ。
だから今、必死で勉強しなさい。そうすれば未来は開けるのさ。
いい大学、いい会社に入れば、自分の価値が社会から認められる。
そうすれば何か見つかる。
そんな気がしていました。
無事難関大学に入学。大学デビューを果たす。
勉強の成果が実り、無事志望校に合格。
それからの四年間、「人生の夏休み」といわんばかりに遊びまくりました。
サークル、バイト、恋愛、海外旅行、、、、etc.
ただ毎日が楽しかった。
この時間がいつまでも続いて欲しかった。
心の奥底の不協和音に聞こえないようなフリをして。
今思えば、この期間僕は自らの「生きる意味」から逃れようとしていたのではないかと思います。
答えを追い求めるのが怖かった。
世間的な価値、という存在意義を失ってしまうことはすなわち死ぬことと同じだった。
だから、ただ目の前を楽しむことで気を紛らわし、生きることの根源を問うことを避けていました。
大企業に入社。そこは暗闇だった。
楽しい時間はあっという間に終わり、めでたく大企業に入社。
仮面の男は言いました。
おめでとう。これで君も勝ち組の仲間入りだ。
永遠の安定を君に授けよう。
でも、そこに答えはなかった。
面白い同期達、可愛がってくれる先輩方。
毎月振り込まれる安定した給与。
残業もほとんどない。有給もしっかりとれる。
サラリーマンも意外と悪くない。
でも、これが一生続くのか?
会社に人生を預けるために生まれて来たのか?
そんな問いかけが、四六時中頭の中を駆け巡りました。
暗闇の中でこそ輝く星がある。
それから僕は約半年間。自分の人生と向き合い続けました。
僕は何がしたかったんだろう?
何が僕の幸せなんだろう?
この期間は本当にしんどかった。
魂の抜け落ちた、骨と肉と皮だけの存在でした。
失意のまま、会社に行っては帰るだけの日々。
出口の見えないトンネルの中、前進しているかどうかも分からなかった。
身近な人の笑顔。
ある時ふと脳裏に蘇ってきたのは、いつもすぐそこにある光景でした。
誰かが笑っている時。
誰かが嬉しそうにしている時。
誰かが喜んでいるとき。
自分も笑っている、
自分も喜んでいる。
自分の心が晴れ渡っている。
これや。と思った。
何故そんなことに気づけなかったんだろう?
誰かの幸せこそが自分の喜びであり生きる意味なんじゃないかって。
誰かの喜びこそが、自分の幸せの源泉にある、っていうことに。
人の幸せは「与える」か「与えられるか」のどちらか
僕はずっと人の目を気にして生きてきました。
人に認められたい、人に愛されたい、人に注目されたい。
そこに答えがあると思ったから、世間的に良い大学に入り、良い会社に入った。
でもそこに答えはなかった。
人に「与えられる」ことにフォーカスして生きていると必ず何処かで自分を見失う。
その人が生きているのは自分の人生ではなく、他人の人生でしかないから。
そうではなく、
人に「与える」ことこそ人生の真理であり生きる意味なんじゃないかって。
僕はそう思います。
これからは人に与え続ける人生にしよう。
2017年1月。僕はそう決心しました。
このブログは、「人生に迷う君へ、情熱とアホとポジティブを」というテーマで
読んでくれた人が少しでも元気になってくれたらな、と。
そう思って今日も文章を綴ります。
長文読んで頂きありがとうございました。
ダイナでした。